大阪拘置所
元勾留者の方より



大阪拘置所にお勤めに行かれた方より続きのお話を頂きました。拘置所内の貴重なドラマのご提供、感謝致します。これからの豊かな人生をお祈りいたします。

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平成○年の大阪拘置所での出来事を投稿します。

私は平成○年に大阪の警察署に傷害事件で逮捕され起訴をされました。

当時、私には妻子が居ましたが警察署の面会室で口論になり離婚届けを提出されてしまいました。このような話しは拘禁される場所では珍しい話しでもなく良くある話しなのです。片意地を張りながら大阪拘置所への移管を待ち留置場で過ごし平成17年の○月にやっと大阪拘置所に移管されました。

裁判の判決までこの拘置所の中で過ごすのも大変な思いをします。まずは、お金がないと同衆との関係も悪くなり世知辛い思いを余儀なくする所でもあります。判決を言い渡されるまでは、甘い物や飲み物や新聞.週刊誌.月刊誌.弁当等の食品も購入出来ます。勿論.未決衆の楽しみは毎日の面会と手紙のやり取りで長い一日を有意義に過ごすのです。私は妻との離婚で面会人も手紙も少なく寂しい毎日を過ごして居ました。

そんな、ある日、運動の時間に運動場で偶然に知り合いと会ったのでした。色んな会話の中で私の知り合いが「先輩!寂しいのなら文通する女の子を紹介しましょか?」しかし文通相手とは同じ大阪拘置所の中にある女区の[訳ありの女性]でした。暫くすると一通の知らない女性からの手紙が届きました。住所を見ると[同所内]と記載されておりました。「やった〜女の子から手紙や〜...どれどれ..フムフム...」中身を開けて見ると可愛い文字でプロフが書かれてありました。年齢も28歳で刑務所3回目のベテランで九州の福岡の大牟田出身の女性でした。

拘置所内での手紙のやり取りで彼女の波瀾万丈の人生を知り私も負けずに我が人生を語りました。多い時には週に3回の手紙の発信.受信で毎日が早く終わり事件の事や別れた妻の事を忘れさせてくれました。そんなある日に別れた妻が面会に来て私の顔を見るなり謝ってくれ裁判の「情状証人になる」と言って帰りました...それからは別れた妻と同所内の女性に手紙を書き続け長い裁判を終えました。別れた妻とは再婚して最後の手紙を同所内の女性に書きました。「長い間有難う....社会にて再会するのを楽しみに、してます。」この手紙を出し終えた翌日に受刑者に、なり拘置所の移送待ちの舎房へと転室になりました。

妻との再婚は、とても励みになりましたが、まだ裁判で戦ってる同所内の彼女の事が気になり何度となく...会った事もない彼女の事を想い浮かべました。「会って見たいな....」 そんな想いを胸に終いながら刑務所への移送を待ちました。それから京都刑務所へ移送され反省の日々を送りました。当時は監獄法改正前でしたので妻子の面会と手紙の受信が何よりもの楽しみでした。

そんなある日に妻から離婚を示す内容の手紙が届き作業も手付かずに、なって行き人間関係も日に日に悪くなって行きました。[やけくそ...]もう仮釈放の事も忘れて満期で出所を考えて生活してました....

そんなある日に同衆と口論になり取り調べになり懲罰を受け違う工場に配役に、なりました。その後も人間関係で苦しみ取り調べばかりが続いてましたが世間は、狭いもので前刑を一緒に務めた人と偶然に同室となり日々の会話が弾みました。その知人の奥様が何と和歌山女子刑務所で拘禁生活を余儀なくしてるとの事でした。私は、その知人に拘置所で文通して居た女の子の話しをして和歌山女子刑務所に在監してるかを奥様の方へ確かめて貰いました。その後、奥様からの返事に私の文通相手が一緒の工場で頑張ってるとの事を知りました。「まさか...一緒だなんて....」私の胸は時めき奥様の方へ伝言を願いました。「先に出所したら手紙が欲しいと....」それから平成19年の○月に突然、手紙が届きました。住所は福岡県大牟田市でした....まさかの手紙に...心から感謝の念を伝え出所まで励まされました。

平成20年○月に仮釈放で出所してから福岡県大牟田市の彼女に電話してから互いに人生をやり直し現在もメールや電話で楽しく会話してます。永遠のラブコールを送ってます。

つまずいた人生をやり直すには本当に人には言えない苦労があります。一歩一歩前進あるのみ!

ある意味、拘禁生活のドラマだったように懐かしく思います...今は..



刑務所生活