茨城農芸学院(少年院)
出身者の方より



本当に悲しいお話です。しかし、この立派な継母様が心に生き続ける限り、投稿者様はきっと立派な人生を歩まれることだろうと想像します。投稿ありがとうございました。

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私は、十代の頃より警察に保護・補導を繰り返し十六で中等少年院である茨城農芸学院に入院しました。

この施設は、周囲が農地で囲まれ塀が無く逃げようと思えば簡単かも知れない作業場でした。(まっ体力に自信がある人に限りますが)

茨城農芸学院では、配属の決定は、入所当初に第五寮という単独室に入れられて、審判記録を職員が目を通し、四日目に分類係との面接をして決められます。ある程度の年齢別で配属が分かれる感じでした。

私は、第三寮と言う寮へ配置になりました。ただ私は鑑別所から単独移送されたときに駅まで迎えに来てくれた職員に『うん。君は三寮候補だな。』と言われていたことから、第三寮になるとある程度の覚悟はしていました。私が配属された第三寮と言うところは、再犯の比率の高いところだそうです。実際に同期の者の話を聞いても、鑑別所の入所回数を聞くと二回〜三回なのです。かく言う私も鑑別所には四回いっています。そんな私でも、不安がなかったと言うことはありません。今迄の人生の中で初めての少年院生活ですから。

『友達が出来るだろうか?』が一番最初に考えたことです。

そして部屋に入ることになったとき、同室の教育係の古い者に、ちり紙を四百枚もらい、歯磨き粉を一箱、箸、歯ブラシ、コップ、筆記具、ノートを二冊を受け取り部屋の一番席に座っている者に『挨拶をするんだよ。』と言われました。そして私は親の過保護で育ったためにまともな挨拶を出来なかったので、教育係が私に挨拶の仕方を教えてくれました。

部屋に入って周囲を見渡すと、誰からも好奇な目で見られ、独特の雰囲気を感じました。しかし私はうまく挨拶ができませんでした。すると私に挨拶の仕方を教えてくれた教育係が『なんのための教育係なんだよ』と部屋の一番席に罵声を飛ばされました。私もそこで低姿勢でいればいいものの『何が一番席なんだよ。同じ立場だろ』と反発したことから、部屋の者から総すかんを喰らい一ヶ月間ほど話もしてくれない日々が続きました。

苦痛と言えば苦痛でしたが、私の継母から毎日のように手紙が届いていたので、それを心の支えとしていました。そして『所詮、馬鹿な野郎の集まりだ!』と覚悟を決めていました。また、私の父親からも『辛いときがあっても、頭だけは下げるな。』と言われていたので、『俺からは絶対に頭を下げない』と決めていたのです。普段反抗していた父親の言われたことを忠実に守っていたのです。おかしな話ですよね。さんざん悪事を繰り返して来たのに、親元を離れてから素直な気持ちになれたのです。

同施設では、約十ヶ月間生活したのですが、対人関係でのトラブルを起こすこともなく定期で仮退院することが出来ました。まぁ、私の継母が毎日のようにくれた手紙が私の心に不安感を取り除いてくれたためだと思っています。約十ヶ月間のあいだに九百通に及ぶ手紙。そして、約半日掛けて来る面会。継母は「早く美味しいものを一緒に食べようね。」と言い残し帰るのですが、その後ろ姿は込み上げるものがありました。警察に逮捕された時も『お前なんか絶対に母親として認めないからな』と罵声を浴びせたと言うのに、「疲れた」と言うこともなく面会に来てくれた継母。私が仮退院してから三ヶ月でまた逮捕され、「今度は長くなるの?」と心配そうな顔で鑑別所迄面会に来てくれた継母。私が意地を張ったために審判の開始が遅れ、継母に無理をさせたんでしょう。私が他の施設に移送になった一ヶ月後に、継母は病いに倒れました。

病院の中からも私に毎日手紙を書き続けた継母でしたが、私はその手紙が一時途切れたことに腹を立て、『結局は呆れているんだろ』と返事を出したその手紙を握り締めて亡くなった継母に、肩叩きすら出来なかったことを悔やんでいます。



刑務所生活